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原爆や戦争の事&本の紹介・トランクの中の日本



今日はいきなり紹介からです。

本の紹介というか写真集のような感じです。今回はその写真がありません、すいません。
図書館が好きで日本にいるとき働いていた高校の図書館で見つけて印象に残っていました。それ以来働いているころは、この時期になると子供達にも何度か一部写真を紹介したこともありました。

なくなった幼い弟を背負って焼き場に立つ少年の写真は有名です。

🌻紹介する本は・・・トランクの中の日本(米従軍カメラマンの非公式記録)
 写真 ・ジョー・オダネル 聞き書き・ジェニファー・オルドリッチ
 発行所・・・小学館

ジョー・オダネルさんはアメリカ海兵隊のカメラマンとして長崎・広島・福岡・神戸まで戦後直後の様子をカメラに収めました。しかし彼はあまりの惨劇を目の前にし、帰国後自ら取った300枚の写真のネガを自分のトランクの中にしまいこみました。しかしそれから45年後、再びトランクを開け・・・と始まっていきます・・・。

 あとは最寄りの図書館かどこかで機会があれば、手に取ってみてください。
************

私も戦争を知らない世代ですが、祖父母や親せき両親、同僚・・・いろんな人からそのころの話を聞く機会に小さいころから恵まれたような気がします。

そんな話を少し。

私が学生時代を過ごし、教員時代も過ごした地、長崎。この地は私の人生にとって大きな意味のある大切な思い出の場所です。

8月6日は広島原爆の日、そしてもうすぐ9日は長崎に原爆が投下された日です。もう73年もたつのですね。

1945年8月9日11時02分. 昭和20年8月9日午前11時02分、9600 メートル上空から投下された原爆は、長崎市の北部にあたる松山町の上空役500 メートルで炸裂しました。
その当時、長崎市には人口約240,000人、原子爆弾による被害者数(1945年12月末までの推定)で死者73,884人、負傷者74,909人(1950年長崎市原爆資料保存員会調査)と多くの犠牲者がでました。≪数年前に長崎原爆資料館を訪ねた際に購入した資料より≫

もちろん、私は生まれていません。
・・・けど、不思議な話になりますがちょっとだけ。

まだ幼稚園に入る前後、なぜかわからないのですが夜中に火事などでサイレンがなると空襲警報ではないですが子供ながらに飛行機が飛んでくる(空襲を意味する感じのものなのですが・・・)爆弾が落ちてくる…みたいな感覚があって、親の胸元に顔をうずめていたのを覚えています。でも今考えると、子供だからほんとうはそんなこと知らないはずなのにな?と思うのですが…。

それに、これは何度も何度も見ていた夢の話です。薄暗い夜だった気がするのですが月明かりはあるような・・・そこへ爆撃機がだんだん近づいてきて周りは焼け野原なのですが、そこで夢の中では私は小さい子供で、このタイミングであのタイミングで走ってあの穴(防空壕)に逃げれば助かる、飛行機に見つからない・・・と何度も何度も間に合わない、もうダメだと思って失敗する夢からだんだん今度はこうやって・・・とうまく逃げ込んで命が助かる夢まで何度も繰り返し見ました。

・・・あれもなんだったんだろう・・・?

私がまだ小学生のころは、原爆投下の日は夏休み中の学校の登校日でした。体育館には、原爆に関する資料が写真など張られて、それを見たり、体育館で大きなスクリーンで映画を見たりしたのを覚えています。

そんな登校日を毎年迎えるたびに、戦争について、平和について子供ながらに胸にいろんな思いが刻まれていきました。

最近の日本はわかりませんが、いつのころからか気づいたらそのような登校日も少なくなっていた気がします。ただいまのような猛暑では夏の登校は身体に酷で無理ですね。

また、そのころになるとテレビで放映される特別番組をみたり、両親につれられても、そのような戦争の話を聞きに行ったり映写機が回っているところへ連れられて行ったのも覚えています。その時は、あまりにも現実的な感じのイメージに、小学生の私もどきっとした感覚を今でも覚えています。

でもそんな番組も昔よりは減ってきたような気が日本にいるころしていました。

戦争は体験していないのに身近に話を聞いたり資料を見せられたりしたからかわかりませんが、戦争のことに関してはどうしても気になるし、それを身近なところで伝えていかないとと思う自分もいます。

つい最近も同じように、全く戦争は知らない関係ない環境で育ったのに、どうしても戦争、昔のあのころが気になるというかたと出会い、やはり同じような思いの方もいるんだなと思いました。

もう亡くなってしまいましたが伯父がまだ結婚前の若いころ10代だったような・・・学徒動員だったと聞いたような気がしますが原爆投下後の被爆地へ救護や後片付けのような形でいって被ばくしたと聞きました。そこからいろんなことがあったんだと思いますが、二度と同じ繰り返しがないようにという思いが伯父からも強さが生前感じられました。

祖母は曾祖父の仕事の関係で子供の頃に父親と大陸に渡り、その後そこで成長結婚して、そして伯母や母を生み、母がまだ赤ちゃんの頃に終戦となったそうです。終戦直後は早く住んでいた場所を逃げないと命の危険があるということで必死に子供だった伯母の手を引き赤ちゃんの母を抱えて逃げたそうです。

戦争が終わって逃げる時、ご近所の方にも助けられたと生前祖母は話してくれました。でも、一方、急に態度が変わって日本人に石を投げる人たちもいたといいます。祖父が他の人たちにのお世話もするため若かった祖母は一人で2人の小さい娘を連れて逃げたそうです。

途中草むらに隠れて敵対する国の兵士が近くを通った時には、赤ちゃんである母に向かって「○○ちゃん、ここで泣かないで、お願いいい子だからここで泣いて声をださないでね」「見つかったら殺される」と必死で小声で語り掛け願ったと祖母からいつも聞かされていました。そして赤ちゃんなのに母は一言も声を発しなかったといいます。

逃げる途中ものすごい人ごみでごった返している中、赤ちゃんの母を抱きながらまだ小さい伯母の手を引いて歩くのが大変だったらしく、それを見た見知らぬ方が声をかけてくれ逃げる方向が同じだからと伯母を抱えて逃げてくれたそうです。

目の前は人、人、人、で、祖母は娘を抱えて逃げてくれたかたとははぐれてしまったそうです。そしてもう二度と会えないのではと覚悟もしたそうです。それが最終目的地のようなところまで来た時に、偶然その人と伯母を見つけたといってました。

ほんと、偶然だったそうです。それほど人込みでわからないくらいだったそうです。ですから、昔、テレビで残留孤児の方が肉親を日本で探すような番組が一時期あったのを覚えていますが、祖母が、伯母の話をしながら他人ごとではないとよく言っていました。
そのころ母を抱いていた紐があったそうですが血がにじんでいて、この戦争の悲惨さを忘れないようにとっておいたようですが、祖父が亡くなった時に一緒に燃やして祖父と一緒に向こうにもっていってもらったようです。


そんな状態で混沌とした中で祖父の故郷へ戻ってきたことなど祖母から聞く戦争体験や、戦争当時の話を親から聞いている両親からの話はとてもなまなましく・・・。そして結婚後は、義祖父がシベリア抑留を生き抜いて戻ってきた話やほかにも私が今まで見聞きしたものとはまた違う戦争関連の話を聞き、いろいろ思うこともありました。


戦争を知らない世代だからとうのもありますが、こういった話を年代を超えて聞いてコミュニケーションもできる機会はありがたかったです。そしてそうやって語ってくれる方々の生きた歴史、生きざまを見せてもらいました。

そこからそういった方々がたどってきた生きざまを大切にして後世に戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えていきたいとつくづく思いました。そういった意味で、教員時代、仕事柄そういう機会を作ることができたことは私が以前からやりたいことでもあったのでありがたいことでした。

そんな私が長崎に住んでいるころ職場である上司に出会いました。

その方は、あの原爆が投下された当時、軍需関連工場で働かれていたそうです。爆心地から数キロしか離れていない場所、現在も車で走っても、そんなに時間がかからないくらいの距離なので、その話を聞いたときは驚きました。

なぜならその方は、私の目には、いつも元気でしゃきっとしていて、働いている姿もパワーがあって若者は負けてはいられない!と思うくらい元気そのものだったんです。私が気づかなかっただけかもしれませんが、仕事を体調不良でお休みする姿も見かけたことがなかったような・・・。

その方は、原爆が投下されたとき建物の中にいてものすごい爆風で、次に気づいたときにはかなり建物はぐちゃぐちゃで壊れた状態。その時一緒に隣で働いていたお友達も近くにいて助かり、2人で普段なら電車で10,20分で帰れるようなところを丸1日だったか(時間の感覚もよくわからないといってました)、かなりの時間をかけて帰ったと話をききました。

周りの建物はなくなり風景が変わってしまっているので方向の感覚もつかめず、家はだいたいこちらの方向だろう・・・など検討をつけながら歩き、足は靴などなくなっているので裸足の状態でかなり歩くのも大変だったということでした。

そして、帰り着いた一週間後。同じ工場でその方の隣で一緒にその時生き残った友達は、体に紫色の斑点が体中にできて亡くなったということでした。

私は、職場の同僚たちと今でいう女子会みたいな感じで食事に行って突然聞いた話だったので、ほんとにいろんな意味衝撃を受けました。
その方はその当時を思い出したかのように多くの言葉は語らない中で、ゆっくりと言葉を選びながら、戦争を知らない世代の私たちに話をしてくださいました。

普段は、そのような話はその当時を思い出すということで、なかなか人にはお話しないといっていたので、あの場で私たちに体験談を話してくださったことを思うと、ほんとにありがたいと同時に、何十年たっても人々がその当時を思い出すと心を痛めるような戦争はもう二度と起こってほしくないし、私たちも起こしてはいけないとさらに心に固く思いました。

いろんな形でこうやって戦争について考える機会をもらいました。そのことが、平和の大切さや戦争を二度と起こしてはいけないとおもう自分の根幹になっています。

考えると、今セラピストとして私たち自身がまず変化して穏やかになることが周囲に広がる愛と平和の第一歩と思ってやっているのも同じですね。

世代はさらに若くなり、子供たちも戦時下のころの生活などをイメージしたり、その時の心理状態を知るにはさらにイメージがこの現在の生活とかけ離れすぎて難しくなりつつあるのも感じてはいます。

それでも、上の年代の方々が語ってくれた体験を次の私たちより若い世代へも伝える機会も大切だなと思います。

そして戦争に限らず個人間の争いもたくさんあります。こちらはたどっていくと「問題は自分の中に」見えてくるので、そんなところから自分自身のことを見つめて個人レベルでの争いも次第に手放していくこともこれからもっと必要になってくると思います。

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